夜が明けた。 顔を洗ったり、身支度を整えたりした後、軽い朝食をとり、野営の跡を片付けて、4人は再び道なき道へと足を踏み出した。 「イザナ、イザナ」 歩きはじめてすぐ、先頭にたって進んでいたイザナのもとに、桜色の髪の少女が小走りに駆け寄ってきた。 昨日からの流れがまだ続いているのか、今朝起きてから朝食の間もずっと、リチェアはユラと2人で何か話をしていたから、こんな風に彼女の方から自分に近付いてくるのはとても久しぶりのことのような気がする。 実際に接触らしい接触がなかったのは昨日1日だけなのだが、イザナにとっては1ヶ月くらいの長さに思えていた。 内心の喜びをあからさまに表情に出すことはなく、イザナは顔だけを後ろに向けた。立ち止まることはしない。眉間に皺を寄せたいつもの仏頂面で、自分より背の低い少女の顔を見下ろした。 リチェアはその視線を受けると、にっこりと微笑んだ。見ている方も思わず笑みを返してしまいそうな、赤ん坊のように邪気のない笑顔だ。 「………どうかしたのか?」 イザナはつとめて冷静な声音で尋ねた。リチェアの笑顔など、もう見慣れている。今更どぎまぎすることはない。 ただちょっと、抱きしめたりとかしたくなる衝動に駆られるだけで。 「うん」 そんなイザナの内心には気付いていない様子で、リチェアは真紅の瞳を柔らかく細め、笑みを深くした。 かと思えば、チラリと後ろに視線を向ける。10ミールほど離れた後方を歩いているユラとカイトの様子を気にしているように思えた。 2人には聞かれたくない話なのだろうか。基本的にマイペースな彼女には珍しい行動だ。 軽く訝しむイザナに、リチェアは再び向き直った。大きくつぶらな瞳でじぃっと銀色の髪の青年の顔を見つめる。笑みは消え、真剣な表情である。心なしか、イザナの方から何か言うのを待っているかのようにも感じられた。 (何だ!?俺、何かしたか!?) 心臓の鼓動が、一気に高鳴った。 それはまあ、心当たりはありまくるし、心当たりがなくともいろんなことをやらかすのがイザナという存在である。 無意識に、というのとは少し違うが、一時の激しい感情に流されて酷い事をしてしまったことは何度もある。そういう時、リチェアは一方的に責めたりはせず、優しく諌めてくれていたのだが、とうとう我慢の限界が来たのではないのか。一緒にいるのももう嫌になったから別れようとか、そんな話では。 一片の光も差さない暗黒の思考の海に、ずるずると意識が飲み込まれてゆく。 「あ、違うの。むずかしい話じゃ、ないの」 「……………だったら、何なんだよ」 少女の柔らかな声音はイザナの意識を一瞬にして浮上させた。 だが疑問は全く解決していない。深刻な話でなければ、人目を気にすることもないだろうし、あの、何かを訴えるようなひたむきな眼差しは、どう考えても世間話をしようという雰囲気ではなかった。 眉間の皺を深くして、苛立ちをあらわにする青年に、リチェアは苦笑いを浮かべて、それからいきなり両手をバッと大きく広げた。 「ほら!」 などと言いつつ、軽く首を傾げてみせる。絹糸のように細く柔らかな髪が、サラサラと頬を滑り落ちた。綺麗だ。 と、いうか。 「何?」 意味が分からない。 「え?」 当のリチェアもまた、きょとんとした表情になった。広げた両手をそのままに、しばし固まる。 完全に立ち止まっている2人だったが、ユラ達が追いついてくることはなかった。彼らは彼らで、何か話し込んでいるようだ。落ち込んでいる様子のカイトを、ユラが一生けんめい励ましている、ように見えた。 どうでもいい、と、イザナは視線を戻す。 リチェアはゆっくりと手を下ろすと、再び、真剣な瞳でイザナを見た。 「えぇと、昨日の私と、今日の私と、ちょっと変わってるところがあると思うんだけど………」 「はぁ?」 想定外の言葉に、イザナは面食らった。そして深く考えることもなく、それはないだろう、と思う。 おそらくリチェアが考えている以上に、イザナは彼女の事をよく見ている。 ほとんど監視と変わりない。髪形や服装を変えたら当然分かるし、ちょっと髪が痛んで枝毛ができているな、とか、肌荒れ気味で額ににきびがひとつできたな、とか、指の爪が大分伸びてきたな、とか、そんな些細な差異でさえ、見逃さない自信がある。 だが、こうして改めて注意深く見ても、昨日と今日とでリチェアに変化があるようには思えない。 髪の長さは肩につくくらいで、色は薄い紅色。細くて柔らかく、触れると心地良い。瞳は紅玉を思わせる真紅色。大きく黒目がちで、髪の毛よりやや濃い色の長い睫毛が縁取っている。肌は透きとおるように白く、頬はほんのりと紅色。まだ若く張り艶のある肌は、触れると手のひらに吸い付くようだ。小作りな頭を支える首は細く、質素な武闘着に包まれた体もまた華奢である。腕はしなやかに伸び、足もすらりと長い。 頭のてっぺんから足の先まで、昨日となんら変わりはない。生きている人間なのだから、髪の毛や爪はごくわずかに伸びているのだろうが、まさかそんなことを言いたい訳ではあるまい。 ふと思いついた事があり、イザナはリチェアの手をとった。彼女が身につけている手袋は、指先が出る形をしている。黒い革の手袋から伸びる細い指を、目に近づけて注視した。 色白の指の先にある爪は………これもいつもと変わりなく、特に手入れされた様子はない。爪紅でも塗ったのかと思ったのだが。 「何処も変わってねえだろ」 リチェアの手首を握ったまま、イザナは淡々と言った。 彼女が嘘をつくことはないと思うが、勘違いをしていることは多々ある。ありすぎて困るくらいに、よくある。さっぱり分からないが、今回もその類ではないのか。 イザナが心の中でそう結論づけた、その時。 自分の命よりも大切に思っている愛おしい少女の表情が、哀しみの色に染まってゆくのを、彼は見た。 「―――――――ッ!!」 呼吸が一瞬止まった。心臓が、ガタゴトと不規則な鼓動を打ち鳴らす。 「そっか…………」 吐息とともに、リチェアはつぶやく。失望したように、肩を落とした。 「リ、リチェア?」 足がふらついて倒れそうになる感覚に必死で耐えながら、イザナは名を呼んだ。 彼女の片手は、まだ握りしめたままだ。情けない話だがそうしていなければ、とても立ってはいられなかっただろう。 何しろリチェアという娘は、基本的に落ち込んだ姿を人には見せない少女なのだ。こんな風にあからさまに暗い表情を浮かべるだなんて、異常事態発生だ。 しかも、原因は明らかに、イザナ自身の失言。 うなだれたリチェアの肩は、いつもよりもずっと細く、頼りなく見える。 イザナは罪悪感からくる息苦しさに耐えながら、硝子細工にでも触れるようにおそるおそる、彼女の肩に手を置いた。 成人男性がハァハァ言いながら、あどけなさの残る美しい少女に触れているその光景は、周りから見れば変質者以外の何者でもないのだが、それはさておき。 拒絶されることを恐れて震える唇が、謝罪の言葉を紡ごうとした、その時。 リチェアは、おもむろに顔を上げた。 愛らしい顔には、涙も、哀しみの色も、一切浮かんではいない。 「………うん、そうだね」 唐突に言うと、照れたように笑った。 「腹筋だって、そんなにすぐに割れないもんね」 ますます意味が分からない。 ひょっとして、とイザナは思う。リチェアは筋肉を鍛えようとしているのだろうか。 彼女は、自らの体を武器として戦う格闘家である。主に蹴り技を使っているため、足の筋肉はそれなりに発達しているが、上半身は普通の娘とそれほど変わりない状態だ。まだ充分に鍛える余地はある。蹴り技だけでも相当の実力を有しているというのに、腕の力も鍛えて拳闘術でも習得したならば、まさに向かうところ敵無し、である。 で、あるのだが。 大きな真紅の瞳。すっと通った鼻筋。紅を塗っていなくても、薄らと赤い唇。 繊細な美貌の少女が。 筋骨隆々、丸太のごとく太い手足を持ち、黒く日に焼けた肌にテラテラと光るオイルを塗りたくり、そのはちきれんばかりの筋肉を誇示するような奇妙なポーズをとりはじめたら。 ―――――イザナー、見て見て、ムッキムキ♪ そう、のんびりと言う声も、心なしか低く野太いものへと変わっていたとしたら! 「ありえねえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!!!」 イザナは絶叫した。彼の声は、”吟遊詩人”であるユラに負けず劣らず、よく通る。 というか、バカでかい。普段でさえ、そうなのだから、ごく近いところでそれを耳にしたリチェアは、目を白黒させた。鼓膜がビリビリ震えて痛い。 遙か後方にいるユラ達は、何が起きたのかという様子で視線を送っていたが、近付いてくる様子はなかった。 全身の力を振り絞って叫んだイザナは、再び肩で大きく息をしながら、呆然としている少女の二の腕を掴んだ。そこはまだ、細くて柔らかい。 リチェアは真紅の瞳をぱちぱちと何度も瞬いている。イザナはキリキリと眉を吊り上げて、目を眇め、まるで脅しているような口調で、 「いいか!?お前は今のままで充分なんだ!!せっかく可愛いのに、余計なことするな!!危ない時は俺が何とかするから!!」 愛の告白の一種ともとれる台詞ではある。 言い方がもっと優しければ、だが。 リチェアはこくんと小首を傾げた。そして、珍しく不満の色をあらわにして眉根を寄せる。 「だけど、私はやってみたいの。納得がいくまで試してみたいの。イザナだって、そうなったらきっと喜んでくれるよ」 黒光りする肌。丸太のような腕を振り上げて、強い魔物も一撃で粉砕。 微笑みさえも、野生的な雄雄しさを感じさせるもので。 「喜ぶかーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」 イザナは両手に力を込めて少女の体をガクガクと強く揺さぶった、 この娘は、自分が一体何を口走っているのか、理解しているのか。 イザナはリチェアを容貌の美しさで好きになった訳ではないし、たとえ彼女がどんなに太ったって痩せたって、歳をとって皺だらけの老人になったって、変わらず愛し続けると心に決めている。 だから、たとえ筋肉ムキムキのマッチョになったって、リチェアの内面がリチェアである限りは、愛おしく思う事ができるだろう。 だが、決して、”喜んで”受け入れたりはしない。絶対に。 「そんな、こと、ないよ。ぜったい、喜ぶよー」 激しく揺さぶられて目を回しそうになりつつも、リチェアは反論した。 しかし、そんな言葉は、イザナの苛立ちを高めるだけだ。 どこの世界に、自分の女が筋肉ムキムキになって喜ぶ男がいるというのだ。いや、世界中を探せば確実に存在する気はするが、そんな趣味を持つ者はあきらかに少数派である。 女は女らしい体型をしているから良いのであって、筋肉などは生きるために必要最低限あれば充分だ、とイザナは思う。 「とにかく、んな事になったら、俺はお前をどこかに閉じ込めてでも、元の体型に戻すからな!」 言い聞かせるようにバシバシとリチェアの腕を叩くと、イザナは踵を返して先へと進んでいった。 ジンジン痛む二の腕をさすりつつ、リチェアは軽く唇を突き出した。 「閉じ込められたって、胸は揉めるよぅ」 その声は、イザナには届かない。 誤解が解けるのは、それから3日後の事であるが、それはまた、別の話である。 ★あとがき★ 読み返してみての感想:カイトの誤解へのフォローが全くなっていない(笑 そんな訳で、リチェアが胸を揉む話、改め「ないしょの鍛練」でした! 女の子同士の友情やら猫耳少年の勘違いやら噛み合っている様で実はゼンゼン噛み合っていないバカップルの会話やら、書いてて楽しかったです(^^) イザナがヤンデレちっくなのは仕様ですが、変態ちっくなのはデフォルメです(何 それはともかく、ちょいえろってほどえろくないですよね、この話。 このサイトに初めてUPする小説という事で、いろいろ自制してみました(笑 いや、最初から濡れ場な話もどうかと思ったので; でも「こんなんじゃ物足りない!」って方も結構いると思うなぁ〜 そういう声がたくさんあれば、ラストでほのめかしてる後日談も書いてしまうかもです。 濡れ濡れ18禁確実ですけどね★もしご要望とかあればINDEXページのメルフォからどうぞ! |